社会人になって起業するまでの間

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私 中田俊行はTCDというWordPressテーマを開発する会社を経営していまして、大きな括りで言えばいわゆる「IT系」の仕事をしています。IT系という括りに入れられると、昔からパソコンが得意だったとかパソコンの前で楽に稼いでいるとイメージされてしまうことが多いわけです。もっとも周辺環境だけを見れば、勘違いされがちな状況にはあるのですが。

関わりの薄い人にどういう印象を持たれようと問題ないですが、若いスタッフからも涼しい顔しているように見られてしまうこともあります。過去を話す機会がないゆえにそうなるのですが、現実とかけ離れた印象を持ってしまうことは、彼らに対して良い影響はないと思うわけです。

今も涼しい顔しているわけではありません。涼しい顔はしていたいですけどね。いつも自分なりにはやっています。

ですので、涼しい顔をしてきたわけではないことを伝えるために、私が社会人になってからTCDを販売するにまで至った経緯をここに書きたいと思います。長くなりますが、ご了承ください。

水商売時代

私は18歳で社会人になりました。大学は一時入学したものの、アルバイトでやっていた水商売が楽しくなり、社員となり、大学は一回生の夏にはもう辞めていました。スカウト、客引き、ホールスタッフ、マネージャーなど色々やらせてもらいました。

自分で言うのもなんですが、私はお坊ちゃん育ちの環境で生まれました。いじめる側、いじめられる側、どちらかと問われれば、いじめられる側の人間。そんな弱々しい人間ですから、水商売なんて荒くれ者が集う世界に見えていました。だけどなぜ水商売を選んだかというと、自分が経営者になるために必要と思ったからです。経営者には算数とコミュニケーション能力が必要だと学生時代によく考えていました。今もその考えは変わりません。

算数は、何にでも数字に置き換えて解読する能力。必要なのは四則演算だけです。四則演算は誰でもできますが、頭の中ですぐに数字に置き換えて、問いと解を見出す能力は誰にでもあるわけではありません。それを私は持っていました。

ただ、コミュニケーション能力が皆無でした。喋りが得意でなかったことに加え、人の気持ちを察することも苦手でした。これらを短期間で伸ばすにはどうしたらいいか?水商売に飛び込んでしまえ。そう思ったわけです。

いざ飛び込んでみると、見える世界は初めてのことばかり。坊ちゃん育ちの私は、これまで見たことのない人種をたくさん目にしました。華やかな舞台の裏で行われる騙し合い。破天荒でいて破滅的。欲望と人情が剥き出しの世界。男女関わらず、いろんな人がいました。

そこで学んだのは社会の本当の部分。人とは何か。私がこれまで見てきたものがいかに表面的であったかを知らされました。

働き方も尋常ではなかったです。休日は日曜のみ、労働時間もおかしかったです。16時に出社、梅田に移動してスカウト、18時過ぎには開店準備をして朝3時から5時くらいまで営業。風営法的には1時までだったかと思いますが、時間を守るお店は当時なかったように思います。閉店準備が終わって帰れるのは6時7時とか遅い時は10時を回るので、週の半分近くは店泊です。家に帰っていたら身体が持ちません。

そんな環境で2年間やれたのは、刺激的な毎日を迎えていたこと、「楽しい」という気持ちも恐らくあったからでしょう。ただ、心と体は限界を超えていました。日曜日は目的なく車を真っ直ぐに走らせて帰って来る日々。気づけば下道で姫路まで来ていたり。ただ頭の中を空っぽにしたいがために。

水商売ではある程度自分なりに成果は残せたと言いますか、今のポジションでは学ぶことはそれほどないと感じたので、辞めました。

短かった不動産時代

私は夜の商売で起業したいとは思いませんでした。将来をそこには見いだせませんでした。自分が何をやりたいかはわからないけど、夜職が嫌なことはわかっていました。そうなると昼職の道しかない。

夜職のコミュニケーションって、昼職のコミュニケーションとは違うんですね。学びにはなったものの、物やサービスを売るためのコミュニケーションには何かが欠けている気がしました。

ということで、昼職の営業を探しました。

不動産は予てより興味があった分野だったため、不動産仲介業に勤めました。と言っても3ヶ月程度ですが。理由は、倒産寸前で一度も給料を貰えなかったからです。

なぜそこを選んだかというと、社長が一人でやっていたからです。アパマンショップとか大手FCに入るより、社長の横にいれる方が吸収が早いと思ったわけです。倒産寸前なのは事前にわかりませんでしたが。日々の業務の大半は借金取りの相手をすること。不動産の案内は数回、契約は一回。社長は借金取りから逃げるためにほとんど出社しない。

案内の仕方なんて全くわからない中、「それくらいできるやろ」と付いてくるのを拒む社長。最初に一度だけ付いてきてもらって、鍵の取りに行き方とか流れを学びました。契約になった時点で重説の案内だけは社長がやってくれた。不動産契約の流れはなんとなく掴めました。

借金取りの中には、ビルの管理人も含まれていました。管理人のおじいちゃんは優しい人で、毎日事務所を訪れるんです。お金を返して欲しいからではなく、社長の身をいつも案じていました。社長ってどうしようもない人間なのですが、人を惹きつける何かがありました。社長には一度だけ焼肉ランチを奢ってもらいました。悪い人ではなかったです。どうしているだろうか。

不動産仲介業では営業力は身につかない。その会社が駄目だったのもあるかもしれませんが。お客さんが来訪する時点で、すでに何かしらの不動産を借りる腹づもりはある。あとは、それに見合ったものを提案するのが仕事であって、南極で氷を売るような営業力は身につかない。そういうのもあって、次に始めたのが訪問販売という仕事です。

訪問販売時代

浄水器を自宅に訪問して販売する会社に就職しました。ここはここでヤバい会社でした。最初の1週間は19時で帰らせてもらえるものの、その後は契約数が少なければ深夜1時2時まで回らされるわけです。最高で深夜3時になったこともあります。

夜23時を過ぎてインターホンを鳴らすのは本当にヤバい。誰も応答しないし、応答したとしてもバット持ったおじさんが出てくるだけ。だから、ある程度の時間になったらみんなインターホンを鳴らさず、車で待機するわけです。「帰ります」なんて上層部が許さないですから。

職場環境の楽しさで言えば、水商売にはまだ楽しさはあったものの、ここはほぼ皆無。上層部に人間臭さはなく、つまらなかったです。同僚先輩にはまともな人、尊敬できる人はいたものの、1/3くらいは半グレみたいな集まり。30代の先輩が「社会の底辺が訪問販売に堕ちてくる」なんて言ってて、ゾッとした記憶があります。

でも、営業の中から学べたものは大きかったです。商品力、看板、金なしの状態で物を売る仕事だったからです。物が売れていくメカニズム・本質的なところを間近で見ることができた。人が物を買うには何が必要か、どういう心の動きをしながら購買へと繋がっていくのかを肌で感じられた。

私は押し売りという手法は取りませんでした。説得もしません。できるとも思いません。最初に教わった先輩がそうだったからです。断られたら次。「人間売り」というのを重視していました。だから、お客さんにはご飯を食べさせてもらったりお土産をもらったり呼び出されたりと、人間的な関係ができることもあった。本当に喜ばせていたとは思えませんでしたが。

その会社には10ヶ月いました。

自分で訪問販売会社を立ち上げる

私は先の訪問販売会社に働いていた先輩に声をかけました。
「一緒に訪問販売の会社を立ち上げませんか?」と。その先輩は昔個人事業主としての経験がありました。当時私は21歳、先輩は38歳。

うまくいく自信はありました。なぜなら、訪問販売は「商品力、看板、金」といったサポートを会社側から得ることなく、自分ひとりで売っていくスタイルだからです。だから、「会社」という箱の存在意義がなかったんです。

ただ、私には経営の経験がないため、先輩を社長に立てることにしたわけです。話がまとまったと同時に会社をやめ、活動を始めました。

商品の仕入れは特に問題ありませんでした。問題は信販会社です。商品は基本的にローンで買う人が多かったため、信販会社との提携は必須でした。しかし、訪問販売が信販会社と提携するには実績が必要。これがなかなかハードルが高かったのですが、先輩が知り合いの社長に掛け合い、提携することができた。知り合いの社長が行っている事業部の一つという形でスタートしたわけです。

晴れて形は出来上がったものの、なかなか売ることができません。勤めている時は売れたのに売れない。なぜか?訪問販売はメンタルが大事です。100件200件回って1件成約するかしないかの世界。売れるまで明るいテンションで訪問し続けなければなりません。イライラしても弱気になってもだめ。常に1件目の気持ちで明るく自信に溢れた姿勢を維持しなければいけません。

当時の私と先輩はフラットな関係性だったため、メンタルケアするマネージャー的存在がおらず、連続で断られるとグダグダになっていった。先輩はとうとう1件も回らずに車で寝だすようになり、現場に行くことも拒むようになった。しょうがなく一人で現場を回すようになったのですが、これがまたきつかった。自分の弱さを痛感しました。

このままでは不味いと思い、元いた訪問販売会社から人を引き抜くことにしました。結果3名の引き抜きに成功。彼らには前職よりも高い歩合、遅くとも18時までに帰れる環境を用意、販売価格も若干抑えることで売りやすい条件を提示。先輩には事務所にいてもらい、私が彼らを先導していきました。それによって、契約数は伸び、3ヶ月目で月商1000万を超えました。

その後、人数を増やして事務所を大阪市内に移転。株式会社化。船出は順調でした。

私と先輩がフラットな関係でいれたのも、最初のうちだけです。それは当然のこと。先輩は株式を持っている代表者で、私は雇われの身。その上、私は高給取りだったため、経費を減らしたいという先輩の意向とぶつかるようになった。幾度の給与体系の変更によって、私は初期の半分程度になっていた。

当時は先輩のこうした振る舞いに怒りました。自分の会社のように育ててきましたし。だから、酷いことも言ったと思います。とは言え、この状況で交渉を続けるのは不毛とわかっていた。長くここにいるのは良くないと思い、次に行くことに決めました。

25歳になっていました。今となってはあの時に仲違いして良かったと思います。また、自分が社長として立ち上がらなくて良かったとも思います。自分が社長になっていたら、おそらくその業界の人になっていたかもしれないし、TCDも生まれませんでした。

アフィリエイトを始める

「次に行く」ってどこへ?と思いますよね。何をやるかは在籍中に決めていました。アフィリエイトで起業しようと考えていました。

訪問販売をやっている時、1つ痛感したことがあります。それは「商品力、看板、金」の無さです。これらが揃ってないと、社員は売上を上げるのにとても苦労するんです。

商品力0、ブランド力0の商品を売ろうとすれば、社員は100の力を使わなければいけない。でも、商品力、ブランド力があれば、社員は5とか10とかの労力で売上がたつんです。

そうした環境を整備するのが経営者の仕事だと思ったわけです。社員が労力をさほど使わずに売れる仕組みを作らないといけない。そういう気づきがあったころに、会社内ではネットショップの立ち上げをやっていたんです。ネットショップで浄水器は一台も売れませんでしたが、その他の価格帯の安い商品は売れていた。そこからどうすればもっと売れるかを考えて、宣伝用のブログとかを立ち上げていた頃にアフィリエイトに出会ったのです。

アフィリエイトは究極的には「商品を販売する仕事」。それがネットであるかリアルであるかの違いで、営業とは通ずるものがあります。さらに人力の営業とは違い、仕組み化ができる。これを会得することは今の私に必要だと考えました。

このように向かう先が定まっていましたので、小さな権力闘争からは早々に身を引き、個人事業主として立ち上がることにしました。2008年、25歳の頃です。

心機一転、6万円のパソコンを購入し、一人でアフィリエイトの作業に没頭しました。人と話したり、色んな人をまとめ上げたりするよりも、自分ひとりで作業をする。この方が性に合っていました。ようやく自分のフィールドに戻ってきた感覚です。

貯金は250万ほどあったでしょうか。半年ほどで軌道に乗ると踏んでいたので特に問題視しませんでした。でも、蓋を開くととても厳しい業界。30万円どころか1円も稼げない。ようやく稼げたのは3ヶ月目。800円の報酬が2つで、1600円です。厳しい。

ただ、この瞬間の私は歓喜に満ち溢れていました。あの瞬間は今でも忘れることはないです。1本売れれば、あとは数を増やすだけ。これまで自分がやってきたことは間違っていなかったんだと報われた瞬間でした。

中田俊行のノート
売上に関係しそうな数字を並べて分析していた

その後、人生でもっとも金のない時を過ごしつつも、月10万を超えることもあったり、なかなか足掻きの日々が続きました。月10万超えても次月は3万円だったりで安定しない。結局資金は尽き、車も売り、コンビニのアルバイトで食いつなぐ日々。マンションの前に柿の木が植えられていたんですが、何度盗もうと思ったか。

2年目の終わりごろだったと思いますが、本当に最低限のレベルだったとは思いますが、本業一本で食べていけてたと思います。ただ、その頃金メダルサイズの円形脱毛症になったんですね。腰も動かすとズキッと来るようになっていました。私にとっては、これは一つの転機でした。

表面的に身体に症状が出たことが、空(天)からのメッセージのように感じました。「自分を大事にしなさい」と。その頃はお金を一切使わず、寝食以外はすべて仕事に注いでいました。外に出かけることもなく。

だから、毎日散歩をするようになった。1時間から3時間ほど。その時には量販店で買った三十数円の缶コーヒーを飲みながら、今日やるべき作業をメモする。散歩が終わったら作業再開。散歩の時間が自分を癒やしてくれました。

散歩は今でも続けています。

TCDのはじまり

転機は2010年。TCDの販売です。ここから先はメルマガで書いている話なので、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。だから、端折ります。

アフィリエイトをやっていた頃、自分でHTMLを書いてサイトを作っていた。自前のテンプレートを使っていた。理由は、既存のテンプレートだと稼げないから。広告のサイズが違ったり、あるべき位置に広告スペースがなかったり、ヘッダーのインパクトが足らなかったり、収益を上げるには不十分だったため、自作していたのです。

それをメルマガで書いていたら、ある時「テンプレートを売ってくれ」と言われるようになった。だから、試しに売ってみた。それで食べていこうとは思ってなかったため、数千円とかほとんど利益にならない価格で売っていました。たくさん売れました。

そうやって段々仕事の比率がTCD寄りになっていき、今に至っています。

TCDは、デザイン、コーディング、プログラムとそれぞれプロのクリエイターが分担して担っています。彼らは一流の職人です。

最初は自分でデザインもコーディングも一人でやっていた。でも、それでは殻を破れない。自分より優れたクリエイターに任せることで、商品レベルを上げていく必要がある。それはTCDという看板のためでもある。

「商品力、看板、金」、これらを用意するのが経営者の仕事。そして、それを手に取るお客さんたちを驚かせる、それを使って稼いでもらう。今もこれが私の経営哲学として生きています。

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中田俊行

1982年大阪生まれ。株式会社デザインプラスという会社を経営しています。
WordPressテーマTCDを運営したり、ブログやメルマガを書いたりしてます。

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