私は元々科学的なことや証明できること以外はあまり信じないタイプでした。子供の頃に母に「目が潰れるから開けるな」と言って貰ったお守りもこっそり開けたりとか、昔墓場で火の玉を見た時も「火の玉なんてあるはずがない」と言って、確認しに行ったりした。そしたら、仲間が乗っていたバイクのライトだったんですけどね。だから、証明できない話は信じないタイプだったわけです。そんな私ですが、ご先祖様が守り神としてついている気がしているんです。というか、ついています。別にスピリチュアルな話をしたいわけではなく、そう思わされる出来事が度重なった上にある感覚なのです。
なぜご先祖様がついているかと言うと、私が道を間違えそうになった時にいつも信号を送って教えてくれたからです。私はその信号をいつも感じ取っていた。言葉では説明がつかない直感なのです。論理的にはAの道が得だと思っていても、直感ではAに進みたくないと感じている自分がいる。そして、頭で考えて一旦はAに進み始めるも、結局はやめて直感の指し示す方向に進んできた。決して平坦な道ではありませんでしたが、今思えばもう片方の道へ行っていたら、大切な人や今の事業を失ってしまうようなとんでもないことになっていたのもある。そうした局面でいつも信号を送ってくれていたわけです。だから、こうしたラッキーは私だけで選択できたとは到底思えない。
一方、同じ血を引く私の父には、正直言ってしまうとご先祖様がついていなかったように思うんですね。うちは江戸時代から代々受け継がれてきた商いがあって、財務体質も万全。祖母の頑張りのおかげで何もしなくてもお金が入ってくる収益システムも出来上がっていました。祖母は所有する土地にアパートとマンションを建てまくったわけです。父は人がいいんですが、自分の力を過信するところや目先の利益に弱いこともあって、塾経営やら株式投資やらでどんどん資産を減らしていきました。ご先祖様は何度も父を守ろうとしていたと思うんですよ。でも、あの時騙されなかったら上手くいっていた・・・などと未だに恨み節を言っているわけで、それがご先祖様の信号をキャッチできなかった原因だと考えます。
私も人より努力はしてきたつもりです。でも、運良く周りに助けられている(恵まれている)と思っていたフシがどこかにあるのです。なぜなら、何も持たなかった10代の頃の私が今恵まれた環境にいられるのは、何者か計り知れない存在がなければ説明がつかないという思いがあるからです。何者か計り知れないので「神」と言ってもいいのですが、それだと想像がしにくいから「ご先祖様」と勝手に言っているわけです。
ただ、守り神は誰にもついていると思います。その信号を受け取るどうかはその人次第なのです。損か得かだけで道を決めていたら、信号を無視してしまうこともある。いい大学を出ていい就職先を探すというステレオタイプな常識も損得勘定の思考の枠内にあることなので、信号を無視してしまいがちです。直感は頭で考えたことに勝るのです。
以前、ブッタへの信仰が厚いカンボジア人に教えてもらったことがあります。「ブッタは私に進む道を教えてくれる。正しい道を進んでいたら心地がいいし、間違った道を進んだら心地が悪い。心地が悪かったら道を戻り、心地がいい方に進む。」と。私は仏教を熱心に信仰しているわけではありませんが、信じることとその存在に感謝することは根底で通じているように思いました。
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